那須ってどんなとこ
那須野ヶ原とは
  1. 定義
    • 栃木県の北東部に位置する広大な平地とそれに続く、ゆるやかな丘陵・高原をいいます。
    • 広義には、箒川以北、福島県境までの山地を除いた地域の約7万haです。
    • 狭義には、このうちの南半分の箒川と那珂川に挟まれた木の葉形の地域の約4万haです。
    • このうち明治初年までは那須東原、那須西原と言われた約1万haの広漠たる原野がありました。
    略図

  2. 歴史への登場
    • 鎌倉時代の「吾妻鏡」で初めて文献に登場
       建久4年(1193年)4月、那須野ヶ原一帯において、時の将軍源頼朝による大規模な巻狩が行われました。
      「もののふの矢並つくろう籠手のうへに霰たばしる那須の篠原」
      (源実朝…「金槐和歌集」)

  3. 江戸時代
    • 那須野ヶ原一帯は、主に、黒羽藩、大田原藩及び幕府領に属し百数十の村が散在していました。
      地域の飲用水や新田開発のため蟇沼(ひきぬま)用水などが開削されました。
    • 那須東原・那須西原(約1万ha)の大半は村々の入会まぐさ場として利用され、毎年春先に焼かれたために、広漠たる原野でした。 ―― 明治の開拓の舞台。

  4. 明治の開拓 ―― 大農場の展開と那須疏水
    • 地域の飲用水、かんがい用水確保のため那須疏水本幹水路(約16km)が1日当たり100mという驚異的なスピードで開削され(明治18年)、大農場の展開を支えました。
    • 明治新政府の殖産興業政策に沿って、那須東原・西原の原野を中心に華族や民間有志による大農場が展開されました。
    • 大農場の先がけ(明治13年)
      肇耕社(ちょうこうしゃ)
      (約1000ha)
      ―― 三島通庸の指導による華族農場第1号
      ―― 後に三島が引き継ぎ三島農場
      那須開墾社(約3400ha) ―― 印南丈作・矢板武ら民間有志による
      ―― 後に松方正義の千本松農場などに分割引き継がれる

  5. その後
    • 大農場の一部は大正から昭和10年代にかけて、残りのほとんどの戦後に解体
        千本松農場 ―― 約800haが今にその面影を残しています。
    • 那須疏水は、昭和40年代に着手した国営那須野原開拓建設事業により全面改修され、約4300haの農地を潤しています。
 那須地域は、日本が近代国家として生まれ変わった明治初期の、意欲に燃える為政者たちの新しい国づくりのロマンが、今なお息づいている土地柄であり、那須野ヶ原の自然にも、人々が100年かけて育んできた品格があります。

明治期の華族農場


明治農   場開 設 者爵位代表的地位面積(約ha)
14
佐野農場
青木農場
加治屋開墾場明

34
{大山農場
西郷農場
佐野 常民
青木 周蔵
(大山・西郷)
大山  巌
西郷 従道




農商務大臣
外務大臣

陸軍大臣
海軍大臣
257
1576
500
 
273
248
}
16傘松農場品川弥二郎農商務大臣257
18毛利農場毛利 元敏旧豊浦藩主1326
19三島農場三島 道庸警視総監1037
20戸田農場戸田 氏共旧大垣藩主883
21千本松牧場松方 正義総理大臣1650
26鍋島農場鍋島 直大旧佐賀藩主383

隣接地
19山縣農場山縣 有朋総理大臣728
出典「那須野ヶ原開拓のあらまし」(磯 忍氏著)



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