■「首都機能は北東へ」国際日本文化研究センター教授 川勝 平太氏(つづき)
 歴史的には、日本は時代が変わるときに首都を移してきました。時代の転換と首都の移転が合致している国は世界広しと言えども日本以外に私は知りません。 日本の時代区分を思い起こしてください。奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代というように、首都機能の存在する地名で時代区分をしています。「東洋のイギリス」といわれた日本ですが、イギリスはチューダー王朝、スチュワート王朝、ハノーヴァー朝というように王朝で時代区分をします。フランスはブルボン王朝から共和制になり、帝政、また共和制になるといったように時代区分をします。ブラジルはリオデジャネイロからブラジリアに首都を移しましたが、ブラジリア時代、リオデジャネイロ時代とはいいません。お隣の中国も同じで、北京、長安、南京、杭州(臨安)等々首都を変えましたが、首都の地名で時代区分をしません。 それに対して、日本の歴史は、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代といえば、きわめてわかりやすい。奈良・平安時代は遣隋使、遣唐使を送り、長安の都の姿を模倣した時代です。奈良の仏教徒の余りにも強い影響力のために、奈良から平安に首都は移りましたが、平城京・平安京が中国の長安の文化を移植したことに変わりありません。長安、洛陽の都は今や遺跡ですが、日本には中国の古代文明が現代に息づいています。 しからば、鎌倉時代はどうか。鎌倉の文化は禅の文化、茶の文化、庭の文化です。鎌倉にも中国文化が息づいています。しかし、中国には「南船北馬」と言いますように、北の大陸的な「馬の文化」と南の海洋的な「船の文化」がございます。鎌倉が取り入れたのは、長安に代表される北の大陸中国の文化ではなく、南の海洋中国の文化です。天目茶碗一つをとりましても明らかでしょう。禅やお茶や庭というのは浙江省、福建省など中国沿海部の南の文化です。中国の北の文化を入れたのが奈良・平安時代、南の文化を入れたのが鎌倉時代です。 室町時代に首都機能が京都に戻りました。室町時代は武家文化と公家文化が融合したといわれますが、むしろ中国の北の文化と、中国の南の文化を融合した時代です。3代将軍義満の北山文化、8代将軍義政の東山文化には禅の文化、庭の文化、茶の文化が息づいています。中国の北の文化の基礎の上に、重層的に中国の南の文化を京都で融合させたのが室町時代です。 しからば、江戸に首都機能を移したときモデルがあったか。ありません。室町時代までに東洋文明の成果は受容しました。そこで日本は板東太郎すなわち利根川の荒れ狂う関東平野を、人力・資力・技術力を駆使して新しい首都を建設しました。そして100万都市・江戸をつくり上げた。これは外国に模範のない首都です。別言すれば、奈良時代以来の中国文明の影響からようやく自立した日本の姿が江戸時代です。江戸には参勤交代で北は津軽藩から南は鹿児島藩まで、さらには、琉球から将軍の代が変わるごとに慶賀使も来ていました。全国津々浦々から江戸に人々があつまり、各城下町では地域にふさわしい形で「小江戸」をつくり上げた。中国文明から自立した日本の姿が全国津々浦々にみなぎっていたわけです。
  
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