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■「首都機能は北東へ」国際日本文化研究センター教授 川勝 平太氏(つづき) |
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東洋文明の成果を日本化し切った江戸の基礎の上に西洋の文物を入れる決意をしました。江戸を東京と改め、近代日本がスタートしました。戦前は軍事力を上げて東洋のイギリスたらんと大英帝国に匹敵する大日本帝国をつくろうとし、戦後は経済力を上げてアメリカにキャッチアップしようと営々と努力をしました。明治維新以後、明治、大正、昭和、平成と天皇の在位で時代区分をしていますが、一貫しているのは西洋へのキャッチアップです。明治以後の時代は西洋へのキャッチアップ時代として、遠からず、一括して「東京時代」と言われると思います。そうすることで海外の文明を受容しては自立する日本の歴史の一貫した流れが見えるのです。東京時代とは、東京を窓口として、西洋の文物を入れ、東京で西洋の技術や科学がほぼことごとく日本化した時代です。東京が西洋文明の変電所、配電所になって日本中にミニ東京ができました。 こうしたキャッチアップを 130年続けて、西洋文明の成果を入れきって現在の日本があります。京都が東洋文明へのキャッチアップの拠点となり、京都はその変電所、配電所になって全国に「小京都」ができたように、東京は西洋文明へのキャッチャプの拠点となって全国に「ミニ東京」ができました。江戸で独自の日本文明が花開きました。江戸時代には東洋文明の最高の成果があります。その江戸の基礎の上に、地名を東京と改めて、西洋文明を受容して、今日に至っているのです。京都で東洋文明を入れきって場所を江戸に変えて日本独自の文化の花を咲かせたように、東京で西洋文明を入れきった今、場所を変えて、東洋文明、西洋文明を融合させるべき時代です。 東洋文明が自然との調和を大切にすることに比べ、西洋文明はどちらかといえば自然を改変し、場合によっては破壊する面があります。それは西洋文明が科学技術によって特徴づけられてるからです。非西洋圏でその科学技術の最高成果をものにした国は日本をおいてほかにありません。アフリカ、ラテンアメリカ、アジアの多くの地域では自然科学や科学技術の教科書はかつての旧植民地宗主国のものです。しかし、日本では、湯川博士から野依博士に至るまで、すべて日本語によって最先端の科学技術を自家薬籠中のものにしてきたのです。日本は西洋の文明の成果をほぼすべて入れたと言えるでしょう。 環境を破壊するのも科学技術なら、破壊された環境を回復するのも科学技術です。新しい首都は、自然との調和を大切にする東洋文明の知恵を活かし、科学技術を十分に駆使した新しい環境共生型の首都をつくるのがふさわしい。首都は、文明史的には、東西両洋の文明を十分に活用した姿でなければなりません。環境創造型の首都です。 首都機能が栃木・福島に来ることで栃木県民や福島県民が、県が日本の中心になるということを単純に喜ぶ時代ではありません。県境を越える意識をもつべきです。首都機能の移転は日本の顔を変え、体を合わせて変えなければ画竜点睛を欠きます。 一番の基礎はやはり地域住民の意思です。住民自治の観点からすると、「森の日本」と「平野の日本」をつなぐ位置に福島・茨城・栃木がある。福島・茨城・栃木の住民が果たすべき役割は「平野の日本」と「森の日本」の媒体であり、決して排他的にならずにお互いに助け合うことです。 日本の国の形を変えるのは、明治維新に匹敵する革命です。市町村合併が進んでいますが、生活に密着した行政は市町村レベルで行うのが筋でしょう。今後、国の機能は先の4つの地域が担っていく。そのように国の形を変えるのに、この決起大会のように、言論で行動するのであって、暴力はない。いわば無血革命です。明治維新は、フランス革命、ロシア革命に比べて、ほとんど無血革命と言っていいものでした。それは鎖国でありながら日本人の世界を見る目が高かったからです。それでも幕末・維新期には内戦があり、血は流れました。しかし今度は、非暴力で国の形を根本的に変えるという、新しい国づくりの出発点にいるのです。 那須・阿武隈地域に首都を移すということは、「森の文明」を日本がつくり上げていく先鞭をつけ、近代の「力の文明」を「美の文明」に媒介するものとして、現在のアメリカの「力の文明」を超える、華も実もある日本になっていくでしょう。いわば東西両洋の文明の成果を活かした地球文明の顔として、那須・阿武隈に建設する新しい首都に夢と希望を託したいのであります。 皆様のご健闘をお祈り申し上げます。ご清聴ありがとうございました。
以上
All Right Reserved. copyright(c) 1999 北東地域首都機能移転連携事業実行委員会
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