重要なお知らせ
更新日:2010年11月30日
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足尾の歴史(特に近代史)は、銅山、及び「古河」を抜きにしては語ることはできない。一般に、足尾の銅山は慶長15年(西暦1610年)に発見されたと伝えられているが、これ以前から、足尾銅山があったという文書も見つかっている。
にもかかわらず、銅山の発見を慶長15年としたのは、これを吉兆として江戸幕府の権威を天下に誇示しようとしたのであって、足尾の人々に事実を語ることを禁じたことが、かえって事実を示していると思われる。
銅山の発見当時は幕府が直営で開発を進めたが、産銅量が少なく採算が取れない一時期(西暦1626年から)は日光東照宮の支配下に置かれ、東照宮では商人に銅を売り渡していた。
正保4年(西暦1647年)再び幕府直営となり、銅の生産も活発化した。また、足尾銅山の銅瓦が日光東照宮・江戸芝の増上寺・上野の寛永寺の建築や江戸城の増改築に使われ、これに応じて銅山街道(あかがね街道)が設けられた。
その後、毎年1500トン前後の銅を産出し江戸期における最盛期を迎えるが、貞亨元年(西暦1684年)を境に急速に下降し、最盛期の10分の1程度の産銅量に落ち込んでしまった。
この産銅業の危機を救うため、寛保元年(西暦1741年)から5ヵ年に渡り寛永通宝1文銭(裏に足の字があるので足字銭という)の鋳銭を行った。5ヵ年で、銅4万貫(150トン)を用い、2千万枚の足字銭を製造している。
幕府滅亡後、銅山は明治新政府の所有となったが、明治4年(西暦1871年)から民営となり、長州の商人岡田平蔵、福田治平、横浜の野田彦蔵、及び副田欣一らが所有し経営した。しかし、年間60トン程度の産銅量にとどまり不振が続いていた。
明治10年(西暦1877年)、古河市兵衛が相馬家の家令志賀直道から半額の出資を得て、価格48380円で副田欣一と売買契約を締結した。
市兵衛は廃山同様の銅山を復興するため、陸奥宗光や渋沢栄一の資金援助を頼りに思い切った新技術と設備を導入するとともに、新しい切羽を開発していった。
古河が経営に着手した明治10年の粗銅の生産は49トン程度であったが、明治15年は273トン、19年には、4361トンと急激に増加していった。
明治23年には、ドイツ人技師へルマン・ケスラーを招き、我が国最初の水力発電所を間藤に建設し、また、同年、細尾峠を越える鉄索が完成した。さらに、明治20年の松木の大火災で消失した木橋の直利橋も、同じ明治23年鉄橋に架け替え「古河橋」と命名した。
こうした近代化施策が功を奏し、明治20年代には日本の全産銅量の40%以上を足尾が占め、年間6000トン以上を生産するようになった。
足尾は、労働運動の発祥の地でもある。明治40年2月、至誠会(労働組合)が坑夫の労働条件、待遇の向上を目的とし、会社側と折衝している中、一部の坑夫により暴動が起こった。警察当局は、足尾全山に保安警察条例(厳戒令)を執行し、軍隊まで動員しその鎮圧にあたった。この時の逮捕者は628人に及んだ。
また大正8年には、第一次世界大戦後よる景気減退と飯場制度に対する不満から、再び労働組合が結成され、18日間のストライキが行われた。
第一次世界大戦によって日本の産業界は飛躍的に成長を遂げ、足尾の産銅業もそのブームに乗った。これと同時に旧足尾町全体もこの時期に大きな成長を遂げている。大正5年には人口が38,428名をかぞえ県下第2位となり、市制を敷くことも検討されていた。
(参考:大正9年第1回国勢調査のデータ)
旧宇都宮市63,771人旧足尾町32,804人県合計1,046,479人
足尾の公害問題は、銅山の発展に伴い明治中期から末期にかけて激烈を極めた。精錬所からの大煙突から出るガスにより周囲の山林に煙害が目立ち始め、銅山用坑木の乱伐がそれを拡大させた。さらに、明治20年に発生した松木の大火災がそれに拍車をかける結果となった。この大火災は、松木・久蔵地区から下間藤地区までを消失させ、この結果として裸地が降雨で土砂を流し、洪水を多発させることになった。この洪水は、下流の桐生から栗橋に至るまでしばしば鉱毒の被害を与えた。
明治23年の大洪水による被害を受け、谷中村村長が栃木県庁に鉱毒除去の陳情書を提出した。
さらに、渡良瀬川流域の農民有志千人が連書で足尾銅山閉鎖の請願を申し出て、これと同時に田中正造が、問題解決について国会において政府に質問し、十数回にわたって被害民の惨状を訴えた。明治29年政府は鉱毒予防工事命令を出した。これは各工事別に30日から180日間の工期を指定し、工事が完了しない場合は銅山の操業を停止させるという厳しいものであった。
銅山は坑夫や東京の業者、さらには町内からも動員し、のべ58万3千人の人夫を予防工事に充当し、すべての工事を期日までに完成させた。
一時は廃止の危機にあった銅山も、町をあげての努力がみのり、明治36年の洪水の際は鉱毒の被害は著しく減少した。
夏目漱石の小説「坑夫」には、明治中期の足尾銅山の坑夫の生活が詳細に描かれている。
入山の経緯や飯場生活、坑内作業の状況など、誇張があるにしてもかなり悲惨なありさまが見られる。
彼らは(坑夫)は、入山後3カ月は無償で働く。また、その後給料をもらうようになっても、諸経費を飯場頭から差し引かれ、当時わずか2銭のうどんさえ容易に食べられない状態だったという。ことに病気にかかると、支出がかさむうえ収入も無く死を待つばかりであった。
「坑夫(だいく)6年、溶鉱夫(ふき)8年、かかあばかりが50年」という足尾銅山の古い歌がある。落盤や珪肺などで、20代の若者が数多く死亡している。
銅山の労働がいかに苦しくても、逃亡することは困難であった。峠には番所があって怪しい者の鑑札を調べ、また逃亡者には追ってが差し向けられた。
昭和47年11月、古河鉱業は鉱山部を廃止するという閉山計画を発表した。戦後の欧米諸国の発展に伴う貿易の拡大、世界的な自由化の波の中産銅業も例外にもれず、さまざまな合理化を図った上での苦渋の選択であった。
県・町・及び労働組合等が会社側と協議を重ね再考を迫ったが、閉山を阻止することはできなかった。
昭和48年2月28日、会社は発表どおり閉山を実行し、400年余りの栄えある歴史の幕が降ろされた。銅山労働者はあわただしく町を出て行き、児童・生徒も大量に転向していった。
それ以降の足尾の人口は大きく減少した。閉山前の2月1日現在で9,632人いた人口が1年後の昭和49年2月1日には7,544人になっていた。
足尾では銅の鉱脈、鉱床を「直利」または「河鹿」と呼んでいた。古河橋の前身である木橋「直利橋」や銀山平の「かじか荘」はこれにちなんだ命名である。
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