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更新日:2018年7月16日

芳賀町の歴史と文化にふれよう!

各市町の文化に関する特集記事の第19弾『芳賀町編』をご紹介します。

 

県指定有形文化財(考古資料) 「般若寺跡石塔付墓誌銘板」

     

   

 

  石塔群は、五行川東岸台地上の般若寺跡(弘仁11年・820創)に南面する。

  徳川家治(10代将軍)供養塔は総高424cm方形土壌上に3段の台石、基礎上に蓮華座を据え五輪塔を立てる。水輪、地輪には天明八年(1788)などの銘記をもつ銅製経筒、台石中に骨壺を各々納める。

  田安宗武(8代将軍吉宗の子)供養塔は総高313cm方形基壇上に三段の台石・基礎上に蓮華座を据え宝塔を立てる。

  2基は家治の養女種姫(宗武の娘)の建立で、ともに葵紋を刻み、家治塔は特に優れている。

  また御本丸官女森野、戸崎の宝塔形供養塔2基(現在高145cm、147cm)と侍臣のものとみられる五輪塔形供養塔2基(総高約230cm、約160cm)が立っている。他に関連史料として墓誌銘板が残されている。 

 

  墓誌銘板大意

  浚明院殿、つまり徳川10代将軍家治公でありまして、将軍職にあること20年、在世50年、天明6丙午年の9月8日(文献上)、実際には8月26日朝逝去しました。是年7月27日微病を得、療養の効あきらかでなく、8月18日にいたって病益々重い事を自ら知ったので、養女の種姫君を召して竊(ひそか)に遺命して言うのに、(種姫君は紀伊中将治宝の室)、「我住世50年少しも善根をなさず、仏縁なお薄いものであるので、こゝに野州般若寺の僧恵乗は持戒堅固の僧であるから、彼に頼んで供養しておるが、汝(種姫君)願わくば、私の没後国家安寧子孫繁栄の為、有廟(有徳院殿・・・祖父8代将軍吉宗)惇廟(惇信院・・・父9代将軍家重)と親族の菩提をとむらう為の彼精舎(寺院)を造立し宝塔を建立して、追福作善(善根)をしようとした意志をついで欲しい。」と遺言し、種姫君は唯々命を諾するうち頭北・西面して生涯を終わられた。種姫君は自ら紺紙に金泥を以て宝篋尊勝無量寿等の陀羅尼(お経の名前)数巻を書写し(写経供養と言う)、且つ紀伊中将治宝卿の書写、其の餘の官女数巻の書写をあわせ、将軍の爪髪等すべて塔内に奉納して無上の菩提を祈った。
旹(とき)  天明8年8月26日(三回忌の命日)  17日理趣(理趣経)三昧開眼供養
導師  㚑(れい)雲枝院  五智院  比丘湛恵大徳    般若寺第8世  鳳  天  謹記

 

  

青木繁と福田たねのロマンの碑

 

 

 

  明治の天才画家、青木繁の名作の数々が芳賀町出身の福田たねとの愛の中から生まれたことを記念するため、芳賀町東高橋の五行川のほとりに作られた碑である。

  この橋は「わだつみのいろこの宮」(国重要文化財)を東京府勧業博覧会に出品するために上京する青木繁と二人の間に生まれた幸彦を抱いたたねとの最後の別れの場所でもある。

  五行川のこの橋のほとりに建てられた「ロマンの碑」は、青木繁と福田たねその一子幸彦(さちひこ、後の尺八奏者・福田蘭童)の3人がモデルとなっている。                    

  

 

次回は、平成30年8月上旬に『壬生町編』を掲載予定です。

 

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